鉄扇逸話:森蘭丸、明智光秀を鉄扇で打つ

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鉄扇が展示されているミュージアムや逸話などをご紹介します。

第一回は「森蘭丸、明智光秀を鉄扇で打つ」です。

森蘭丸(森成利)

没年:天正10.6.7(1582.6.26)
生年:永禄8?(1565)
織田信長の近習。可成の3男。母は林通安の娘,妙向尼。長可の弟,忠政の兄。美濃国(岐阜県)金山に生まれる。幼少より信長に近侍し寵愛された。『信長公記』などには天正7(1579)年ごろより,信長が家臣などに褒賞を与える際の取り次ぎ役として現れ,奏者として重用されていたことがうかがわれる。実名については『寛政重修諸家譜』などから,信長の諱の1字をもらい長定と名乗っていたとする説もあるが,『金剛寺文書』に残る書状には「森乱成利」とあり成利が正しい。また同書状が信長黒印状の添状であったことから,その加判奉行をも務めていたことがわかる。同9年4月20日近江に500石を与えられ,同10年3月,武田氏の滅亡後は美濃金山5万石を与えられた。同年6月本能寺の変に際しては槍をとって防戦に当たり,弟坊丸・力丸と共に信長に殉じた。18歳という。<参考文献>奥野高広『新訂増補/織田信長文書の研究』

(長谷川弘道)

出典 朝日日本歴史人物事典て 

明智光秀

没年:天正10.6.13(1582.7.12)
生年:享禄1?(1528)
安土桃山時代の武将。美濃土岐氏の支族というが不詳。美濃明智庄の出身でこの姓をとなえ通称十兵衛。はじめ越前の朝倉義景に仕え,義景を頼った足利義昭と共に,織田信長のもとに赴き,義昭に仕えた細川藤孝と共に入京を工作して名をあらわした。従って信長の家臣であると同時に義昭にも奉仕した。永禄11(1568)年の信長入京に当たっても,義昭のため公家側に働きかけ,翌12年は木下藤吉郎(豊臣秀吉),丹羽長秀らと軍政に能力を示し,公家寺社領仕置や庶政にも携わった。信長と義昭対立のときも両者の間に立って斡旋した。元亀1(1570)年信長の摂津,近江の出陣に従い,同2年近江滋賀郡を領して坂本築城を始め,同3年浅井氏の小谷城の包囲に参加,天正1(1573)年越前朝倉氏攻略にも加わり同国の庶政も担当,同2年大和多聞山城を守備,美濃,河内に転戦,同3年8月功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。 信長の統一過程が西に向かうと丹波攻略の先鋒となり,多紀郡八上城に波多野秀治を攻め,さらに紀州雑賀の一向一揆に対し,大和信貴山城に松永久秀を滅ぼし,再び丹波八上城を攻め,その間秀吉を救援して播磨に出陣して神吉城を陥れ,ひるがえって八上城波多野秀治を降し,丹波攻略を完成,一国支配を認められた。天正8年は4月備中の秀吉を助け,9月大和の滝川一益に協力し大和寺社本所の所領差出を命じ,9年8月因幡鳥取城攻撃にも秀吉を援け,丹後の検地を断行,10年甲州の武田勝頼攻撃に従う。4月安土に帰陣すると,徳川家康の饗応役を命ぜられたが,その直前に備中高松城包囲に救援に向かうことになった。光秀の東奔西走の労を顧みない信長につよく反発,一旦本拠坂本城に戻り,亀山城(亀岡)に入り,ここで愛宕山に詣り謀反を決意した。同年6月1日備中出陣の名目で1万3000の軍兵を率い亀山城を発して,老ノ坂で天下取りを表明,本能寺を急襲,信長を自刃せしめ,二条御所に信忠も自滅させた(本能寺の変)。直ちに人心収攬の手を打ったが,機敏な秀吉の反転を6月13日山崎に迎えて敗れ,一旦勝竜寺城に入り再起を期して坂本に向かう途,小栗栖で土民の襲撃によって自刃。法名秀岳宗光。<参考文献>高柳光寿『明智光秀』

(林屋辰三郎)

出典 朝日日本歴史人物事典

『絵本太閤記』 国文学研究資料館 

巻7にて森蘭丸が明智光秀を鉄扇で打つ記述が出てきます。

安土の信長のもとへ上客がおとずれることにまり、明智光秀は饗応司の役を言いつかった。光秀は勢を尽くして宿泊所を飾り付けたが、信長は華美に過ぎると怒る。光秀は抗議したが、近習たちに光秀を打つように命じた。森蘭丸が光秀の頭を鉄扇でしたたかに打つと烏帽子は破れ、血が流れた、光秀は恨み少なからずといえども忍んで退出した。

 参考:立命館大学アートリサーチセンター

また『戦国逸話事典』(逸話研究会/編 新人物往来社 1989.1)にその逸話の現代語訳が収録されています。

 参考:レファレンス協同データベース

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